『先師の物語』〜序章(二)〜準備の整った者の前に師は現れる

こんにちは。

本日の内容は以下のブログのつづき
となります。

〜序章(一)〜私が西安で学んだ陳氏太極拳

『先師の物語』〜序章(一)〜私が西安で学んだ陳氏太極拳

(※のマークのついている箇所は
専門用語や個人名についての解説が
ページ下部にあります。)

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『先師の物語』〜序章(二)〜
準備の整った者の前に師は現れる
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陳式太極拳の現代における普及は
一般的に陳発科が1928年に北京へ
行ったところから語られることが多いが

例の投稿の冒頭で

「洪均生(※)氏の回想録や田秋茂(※)氏のブログ、
北京陳式太極拳研究会の文章の中で

劉子成、劉子元、許禹生、李剣華、
劉慕三、楊益臣、李鶴年、劉亮、趙仲民

といった早期の弟子の名前に触れられて
いるだけで、その時代の具体的な状況は
未だに詳しく語られていない。」

と書かれていたように

中国の方々にとっても
著書やネットなどのメディアから
当時の北京での出来事について伺い知ることは
これまで容易ではなかったようだ。

西安留学(05年〜09年)当時の私が
片手間で調べることなどできなかったのも
無理はない。

その投稿の筆者が後々に詳しく
1928年~1940年頃の北京での
陳式太極拳の伝承過程を調べるに
至った経緯は以下のようなものだった。

「筆者はかつて西安市の興慶宮公園で
現在の陳照丕(※)伝の老架にも似た
少し異なる陳式太極拳を練習している人を
見たことがある。

その練習者によると、彼の老師である白悦本は
陳発科の早期の弟子、楊益臣から学んだ。

この套路は抗日戦争の折に楊益臣が
北京から西安に移住した後に伝えたもので
陳発科により1928年に教わった
“老拳架”(古い架式)だという。

この興味深い出来事により筆者は
楊益臣氏について詳しく知ることができれば
陳発科が北京で伝承した1928年~1940年頃の
具体的な情況が明らかになるのではないか
と思った。」

・・・・・・

投稿のこの部分にさしかかった時
読みながら笑みがこぼれた。

その筆者がかつて見たという
「西安の興慶宮公園で練習している人」
というのは

どう考えても私が留学中に学んだ師、
蘭広華老師であることは明らかだったからだ。

興慶宮といえば唐の都、長安にあった
玄宗皇帝が楊貴妃と戯れた場所として
知られているが

私が初めて蘭老師の指導を見学しに
赴いた場所こそその興慶宮公園の門前だった。

その投稿の筆者は、その老師との対話を
きっかけとして、後々その当時の北京を
詳しく知る先人の方々にお話を伺いにいく
ことになるのだが

そのストーリーの中身に入っていく前に
私自身が2006年に蘭老師と出会った時の
思い出を語っておきたいと思う。

・・・

2005年の夏
私は中国西安にある西北大学文博学院
(文学部にあたる)の博士課程に入学した。

思い出すとその経緯を含めて
語りたいことが山ほど出てくるし

感謝を伝えたい方々が脳裏に
溢れ出てくるのだが

物語に繋がることに(できるだけ)
しぼって述べようと思う。

・・・

西安留学までにある程度の中国語の会話や
武術関係での通訳などはしてきていたが

私は語学留学をすっとばして
博士課程に入学したので

専攻していた中国古代思想史に関する
専門的な講義を中国の大学院生たちに
まぎれて受講する以外にも

最初の一年は長期滞在している
本科の留学生に混ざって
語学の授業を受けたりもしていた。

その他にも
長安大学の社会人研修クラスで
臨時の日本語教師をしたり

同じマンションでルームシェアをしていた
韓国人留学生やその仲間たちと遠出をしたり

新しいこと楽しいことが目白押しで
指導に携わってきた武術に注ぐエネルギー
(気)が正直、散漫になっていた。

「長期留学あるある」だが、留学生には
半年に一回たくさんのお別れがある。

みんな留学を終えて各々の国へ
帰国していくのだ。

留学して一年後、家族のように時間を
共有していた仲間たちが一斉に日常から
いなくなった。

当時その大学の博士課程に日本人で
在籍していたのは自分1人だけだったが

同時期に西安に来た語学留学生たちと
毎日のように勉学のスキマ時間を
共有していたので、彼らの帰国は
想定していたよりも体にこたえた。

練習不足もたたったのか
精神的ダメージと体調不良とが重なり
短期間で激ヤセしたのを思い出す。

その頃から少しずつ自分の体と向き合う
ようになった。

当時25歳の後半。

今考えたら相当若いが
当時なりに年齢を感じるようになり
武術を始めたばかりの頃のような雑な練習を
していては体を壊すと思うようになった。

少しずつ大学のグラウンドでの
圧腿や架式(立ち方の練習)などを
長めにした練習を丁寧に取り組むようになり

日本でお世話になった武術の先輩方にも
少しは顔向けできるような生活を取り戻し
始めていた。

そんな頃、同じ大学の敷地内に住む
日本人親子と知り合い、小学生の息子に
中国武術を教えてほしいと依頼されて

毎晩のように螳螂拳を一緒に練習する
ようになった。

日本に住んでいた頃にバレエの世界で
結果を出した経験のある体のよく動く男の子
だったので、みるみる上達した。

彼は外国人専用のスクールではなく
現地の子に混じって中国の小学校に
通っていたので

日本人としていじめられないように
武術を身につけておきたいという思いも
あったようだ。

案の定、学校内でも一目おかれる存在となり

小学校の運動会ではみんなが集団演武する
時に、私が伝えた螳螂拳の套路を一人中央で
表演することになった

と堂々とした様子で語っていた。

初めて出会った頃はあどけない顔で
女子留学生のお膝にちゃっかり座っていても
何の違和感もなかったお子ちゃまが
武術とともに成長していくのが誇らしかった。

日々の練習を通して私の心身も
少しずつ整い始めていたそんなある日

彼の母親からあるお誘いを受けた。

もちろん夜のお誘いではない。

母親曰く、自分が日本語を教えている
女子生徒のお父さんが

「私が伝えている太極拳は
“真功夫”(ホンモノの武術)だ」

と豪語しているらしいから
実際どうなのか一緒に見に行って
もらいたい

というものだった。

そして、その母親と小学生の彼、
中学生の姉、私の4人で赴いたのが
例の興慶宮公園だった。

その失礼な品定めの結果が
どうだったのか

・・・

結論から言うと

その日、私はそこで指導していた老師に
教えを請うことを即決した。

今思い出すと決めた理由は後付け
かもしれない。

ただの直感でしかなく
それ以外の選択肢がもう考えられなかった
だけのような気もする。

それでも、なぜその老師についたのかと
聞かれたらこう説明していた。

半年学んだだけという大学生の安定感が
すごかった。

しかも後輩たちの見本となっている
やたらいい動きをしている学生ですら
練習歴たったの2年だった。

武術歴10年、それなりに日本で重心の
崩し合いを先輩方と練習してきて
安定感に自信のあった自分も

彼らとガチンコの推手で向き合ったら
秒殺されるのは明らかだった。

その老師から学べば、留学という
限られた期間でも自分が劇的に進化
できるのではないか

そう思った。

そして、その日本語の女子生徒の父である
蘭老師が毎朝練習しているという城壁沿いの
公園へ通う日々が始まった。

とにかく毎回体が内側から喜んでいた。

代謝の上がり方が尋常ではなく
季節に関わらず大量に汗をかくので
毎朝練習前と後では体重が1.5kg以上違った。

小学生の彼とも一緒に学んだが
柔軟性もセンスも優れた彼には
あっさりと先を越された。

発勁の見本としてその小学生の動きを
参考にしろ、と他の学生たちに見せる
ほどまでになっていた。

朝は老師のもとで陳式太極拳、
夜は陳式太極拳を練った後に螳螂拳
そんな日々を彼と続けていた。

中国の小学校はとにかく宿題が多い。

えんぴつの持ち過ぎで肩が凝り
吐き気がするというレベル。

しだいに彼は練習に来なくなった。

私は変わらずに朝の城壁沿いで
マンツーマン指導を受け続け

夜もたまに大学生たちが学ぶ
興慶宮公園へ通っていた。

蘭老師とその小学生と3人で
屋台の低い椅子に腰掛けて
クミンのかかった羊肉を食べながら
話をした時間がとても懐かしく思い出される。

蘭老師はムスリム(イスラム教徒)で
清真寺(中国にあるモスク)に礼拝に
行っていた。

帰国前に一度だけお部屋に入れて
もらったことがある。

ちまたのミニマリストよりも
物の少ない質素な生活をされていた。

お部屋の中には

・土間のような硬い地面
・練習場所に通うための自転車
・木の長椅子が一つ
・生徒にもらったという果物の入ったダンボール箱
・机にコーランと中国の古典が二冊
・硬そうなベッドの先の壁にかかった刀と剣

これが全てだった。

練習と指導と礼拝以外に
老師のしていることは知らない。

そんなシンプルさだ。

その蘭老師の先生にあたる白悦本師爺は
相当厳しかったという話をされていた。

そのさらに先生である楊益臣先師の
お話も伺っていたが

老師が紙にメモしてくれた文字は
「楊易辰」だったと記憶している。

益(yiの4声)「エキ」
易(yiの4声)「エキ」

臣(chenの2声)「シン」
辰(chenの2声)「シン」

要するに中国語でも日本語の音読みでも
発音が全く同じ文字なわけで

蘭老師自身も白師爺から口頭のみで
先師の名前を聞かされていたことが伺える。

この物語はその楊益臣先師について
日本語で語るために書き始めたが

少し自分の思い出に浸りすぎて
長くなった。

次こそは
1928年頃の北京に舞台を移そうと思う。

〜つづく〜

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〈注釈〉

※洪均生…1930年からの15年間、陳発科より
学び、1944年山東省済南に引っ越した後、
1956年再び北京に戻り、陳発科に師事した。

彼の伝えた太極拳は洪派陳式太極拳として
知られている。

西安で蘭老師から
「我々の架式と洪派の陳式太極拳は本来同じ
系統だが、彼らは動作を変えてしまった。」
と聞かされていた。

それがただの蘭老師の主観なのか
先師がそうおっしゃっていたのかは
わからないが

私は「みんな独自の風格でるよねー」
くらいにしか当時は思っていなかった。

ネット上には洪氏が山東省から北京に戻った時
陳発科の伝えている架式が変わっていた
といったエピソードも見られた。

彼の師兄にあたる楊益臣とのエピソードも
後のストーリーに出てくることとなる。

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※田秋茂…陳氏太極拳第十九代伝人。
北京市陳式太極拳研究会副秘書長。
1945年北京生まれ。

彼の叔父の田秀臣は陳発科の高弟
(=古い弟子)でありその叔父と
馮志強より学んだ。

その投稿の筆者と楊益臣先師の弟である
楊徳厚氏とを繋いでくれたのが
この田秋茂老師だった。

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※陳照丕…1893年4月8日-1972年12月30日
陳家太極拳第十八代伝人。陳発科の甥。

1928年より北平(現在の北京市)で
指導していたが南京に招聘された際に
その代理として陳発科が北京に赴いた。
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