『先師の物語』〜第七話〜西安への移住とその後

こんばんは。
久しぶりの投稿です。

5月上旬、鹿児島へ向かう移動中に
書いています。

いつも初めて飛行機に乗る子どものように
窓にはりついて景色を眺めています。

世界を俯瞰する時間は大切ですね。

今年初となる鹿児島セミナーは
5月7日(土)に鹿児島市内で開催します。

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【鹿児島セミナー〜最新情報〜】
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5月14日(土)午後開催
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5月21日(土)午後、22日(日)午前開催
東京ワークショップ
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_________

今回は4ヶ月以上間が空いている
「先師の物語」の続きです。

直接会った際に
「次が出るのを楽しみにしてます!」

と声をかけて下さった方々
ありがとうございます。

お待たせしましたー!
と言うレベルを超えて
時間が経ちすぎているので

ぜひ序章から流し読みしてから
今回も読み進めていただけたらと
思います。

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2021年、ある投稿の発見
『先師の物語』〈序章1〉
https://shienonekonessblog.wordpress.com/2021/09/28/chen-style-taichi-story1/

2006年、西安での出会い
『先師の物語』〈序章2〉
https://shienonekonessblog.wordpress.com/2021/10/11/chen-style-taichi-story2/

2008年、先師の弟のお話
『先師の物語』〈第一話〉
https://shienonekonessblog.wordpress.com/2021/10/27/chen-style-taichi-story3/

1928年北京
陳式太極拳を初めて目にした者たちの戸惑い
『先師の物語』〈第二話〉
https://shienonekonessblog.wordpress.com/2021/11/07/chen-style-taichi-story4/

陳発科を本気にさせた?
『先師の物語』〈第三話〉
https://shienonekonessblog.wordpress.com/2021/11/17/chen-style-taichi-story5/

系譜に記されざる伝人
『先師の物語』〈第四話〉
https://shienonekonessblog.wordpress.com/2021/11/30/chen-style-taichi-story6/

先師を敬服していた師兄弟
『先師の物語』〈第五話〉
https://shienonekonessblog.wordpress.com/2021/12/09/chen-style-taichi-story7/

陳発科による毎朝のマンツーマン指導
『先師の物語』〈第六話〉
https://shienonekonessblog.wordpress.com/2021/12/19/chen-style-taichi-story8/

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シリーズ第9段
『先師の物語』〜第七話〜

「西安への移住とその後」
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例の投稿には、前話の続きとして
陳発科の武徳や誰にも分け隔てなく
包み隠さず教えた彼の人柄、指導方法
などについて語られていた。

北京で投稿の筆者から取材を受けていた
楊益臣先師の弟、楊徳厚氏は
さらに話を続けた。

「兄たちのうち数人は陳発科から学んだ
ことはあったが、毎日家まで通って
しっかり学んだのは2番目の兄(楊益臣先師)
だけだった。

早い時期に学び始めた弟子の中で
最も熱心に学んでいた。

兄は陳発科と性格が似ており
陳発科も彼のことを気に入っていた。

・・・

七七事変(盧溝橋事件)で
二十九軍が日本軍と激戦となった時
多くの重要な部門が緊急移転した。

2番目の兄(先師)、3番目の兄、
3番目の姉の夫は家族を北京に残して
西安へ移動することとなった。

私はまだ高校を卒業したばかりで
北京に残って家の手伝いをしていた。

当時兄たちと西安に行った者たちはみな
陳発科を通して会館で知り合った商人たちで
稼いだお金を北京の家族のめに
持ち帰っており、陳発科老師との間でずっと
手紙のやりとりをしていた。

兄は頻繁に陳老師のところへ伺うように
私に言った。

当時、電報局の最初に学び始めた者たちは
みんな北京を離れることになった。

陳発科は所属する機関もなく
北京に残って指導で生計を立てていたので
一時期生活は困窮した。

1940年代に陳発科はかつて兄に手紙で
西安へ行って指導で家族を養いたいと
言っていた。

しかし
河南省陳家溝から難を逃れて西安に来て
太極拳を教えている人はたくさんいて

しかも西安で指導して得られる収入は
北京のそれには及ばないと返信し
結局陳発科は西安に来なかった。

兄は1937年に西安へ行った後
西安韋曲電報局にいた時
数人に教えていた。

その中の一人「鉄佛」と呼ばれる和尚が
傑出していた。

戦後、西安電報局は城壁内に移転し
兄は蓮湖公園で指導した。

私の知るところでは
陳照旭(※)が戦後の間もない頃に
西安へ兄に会いに行き、家に泊まったという。

私は大学を出て働き始め、様々な理由で
あまりよく練習しなくなり、兄には
遠く及ばなくなってしまった。

・・・

文化大革命後の1972年
私は河南五・七幹部学校から北京に戻り
用事のない時は雷慕尼(※)と
月壇(北京の公園)へ行き一緒に練習した。

その後、私と雷慕尼も
現在の架式に動作を改めた。

私の知っていることはおおよそ
こんなところだ。

その他の情況については西安に戻って
からでも知ることができるだろう。」

2008年頃に北京でなされた取材の内容は
ここまでとなっていた。

私が昨年(2021年)この投稿を
初めて見つけて一気に目を通した時

先師の弟ご自身も兄とともに学んだ套路を
「現在の架式に動作を改めた」
という最後のくだりを読んで

その時代に思いを馳せながらちょっと
切ない気持ちになったのを思い出す。

もちろん
師である陳発科と直接会える環境にあれば
師がその時に伝えている動作に改めて
いくのは当然のこと。

ただこうした一言からも
投稿と出会う前にはボヤッとしていた
よく目にする陳式太極拳と私が西安で
学んだそれとでは架式に違いがある理由や
その背景が見えてくる。

ここでは戦後から文革まで話が飛んでいるが
楊益臣先師はその間の1959年に
亡くなっている。

_________

2021年9月に中国のサイトで
10年以上前に書かれたとある投稿を
見つけたことをきっかけにして

私が西安留学中に学んだ
陳式太極拳の架式がほぼ他団体で
見られないカタチである理由や

伝わった系譜、時代背景などに
ここまで思いを巡らせてきた。

少しずつ書き足して
半年以上が経過した今

「一緒にこの系譜の陳式太極拳を
学んでいる仲間がこの套路に誇りを
持って取り組めるようになる」

という当初の目的はある程度
果たせたのではないかと思っている。

終盤にさしかかった物語、次回は
西安で楊益臣先師から学んだ弟子たち
について触れたいと思う。

〜つづく〜

_________

※陳照旭…(第六話参照)陳発科の息子。
陳式太極拳第18世伝人。
1960年、反右派闘争の際、収容施設を
脱出しようとして射殺される。
陳照丕は従兄。陳照奎は異母弟。
陳小旺は息子。

※雷慕尼
湖北省武昌の人、1911年生まれ、1989年享年75歳。北京市の武術協会顧問、陳式太極拳研究会副会長を務めた。
1928年北京に渡り「北京国術館」に入学し、太極拳をはじめさまざまな武術を習った。このとき紹介で陳発科と知り合い、陳式太極拳を習いはじめ、1932年に陳発科の正式な弟子となった。

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『先師の物語』〜第六話〜陳発科による毎朝のマンツーマン指導

こんにちは。

今日は午前中に屋外で
心意六合拳の個別指導をして

お昼からコーヒーを飲みながら
お店の中でブログを書いております。

最近は数年ぶりという方を含め
久しぶりに指導依頼の連絡を
してくださる方がいて

何かエネルギーが水面下で
動き出しているのを感じます。

モノも情報も時間の使い方も含め
不要なものを人生から削ぎ落として
来年に向けて心身を整えていきましょう。

いい年末をお過ごしくださいね。

今回は前置きはそこそこにして
シリーズの続きにサクッと入ります。

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初めてこのブログに辿り着いた方や
久しぶりの方は、以下の投稿を
ご覧いただいてから読み進めてください。

2021年、ある投稿の発見
『先師の物語』〈序章1〉
https://shienonekonessblog.wordpress.com/2021/09/28/chen-style-taichi-story1/

2006年、西安での出会い
『先師の物語』〈序章2〉
https://shienonekonessblog.wordpress.com/2021/10/11/chen-style-taichi-story2/

2008年、先師の弟のお話
『先師の物語』〈第一話〉
https://shienonekonessblog.wordpress.com/2021/10/27/chen-style-taichi-story3/

1928年北京
陳式太極拳を初めて目にした者たちの戸惑い
『先師の物語』〈第二話〉
https://shienonekonessblog.wordpress.com/2021/11/07/chen-style-taichi-story4/

陳発科を本気にさせた?
『先師の物語』〈第三話〉
https://shienonekonessblog.wordpress.com/2021/11/17/chen-style-taichi-story5/

系譜に記されざる伝人
『先師の物語』〈第四話〉
https://shienonekonessblog.wordpress.com/2021/11/30/chen-style-taichi-story6/

先師を敬服していた師兄弟
『先師の物語』〈第五話〉
https://shienonekonessblog.wordpress.com/2021/12/09/chen-style-taichi-story7/

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シリーズ第8段
『先師の物語』〜第六話〜

陳発科による毎朝のマンツーマン指導
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投稿を読み進めていくと
西安留学中に蘭老師から聞かされていた

楊益臣先師が陳発科を自分の家に
住まわせていたことに関する
エピソードが出てきた。

・・・

先師の弟、楊徳厚氏は
兄について語り始めた。

『当時、我々の家は経済状況もよかったので
兄はよく家に陳発科を呼んで食事をしていた。

陳発科は旧正月も帰省せず指導していて
彼の奥さんが河南の故郷に帰っている時は
兄は陳発科を家に住まわせていた。

私たちの家は部屋数も多く
お手伝いさんもいたので
生活するにはとても便利だった。

李鶴年(※)もよく家に来て
陳発科に付き添っていた。

ある日、皆で雑談していた時のこと

当時うちの大広間には八仙卓(※)があり
両側にそれぞれ椅子があって
陳発科と兄が座っていた。


〈※八仙卓(八仙卓子)のイメージ〉

李鶴年が陳発科に対して
「もしめちゃくちゃ速いスピードで
殴ってくる人がいたらどうしたらいいか」
という話をしたら

陳発科は
「私はここに座っておくから
全力で打ってきなさい」
と言い

李鶴年は
「わかりました」と
殴りかかった。

・・・

我々の目に追えぬ速さで
李鶴年は背中から吹っ飛び
門外に出そうになったが

陳発科は椅子から大きく一歩出して
李鶴年をつかんで引き戻した。

みな何が起きたかわからず
李鶴年も驚いて顔が青ざめていた。

彼は後になってこう語った。

「拳を出した時は明らかに陳発科の体に
当たっていたのに、ただ空っぽで
綿花の上に落ちていくような感じで
自分が浮き上がっていた。

ホントに驚いた。

明らかに私が先に飛んでいったのに
陳先生は椅子から起き上がって
私を掴み戻した。

私が飛んでいくのより速かった。
あれは本当に感服した。」

我々は陳発科が家にいた時
暇さえあれば練功していたのを
ずっと見てきた。

歩いても座っても動作を練っていて
常に練功の手を抜くことはなかった。

そのため聴勁(※)の感度は極めて高く
神業の域に達していた。

彼に一度殴りかかりさえすれば
吹っ飛ばされる。

だから李鶴年が飛んでいったのも
何ら不思議ではなかった。

有名になったことで彼に挑みに来る人も
よく訪れるようになった。

天橋の沈三や、はじめは陳照丕(※)に
挑もうとしていた李氏三兄弟

みな山東省の大男たちだが
結果的に陳発科のところへ
訪れて試合を挑んで敗れた。

しかし、陳発科は武徳ある高尚な人物で
対外的にひけらかすことはなかった。

当時の北平には名声ある者が多くいた。

京劇の武生泰斗(※)であった楊小楼
北平国術館館長の許禹生(※)
民国大学教授の李剣華、沈家禎

みな陳発科の名を聞きつけて訪れ
手合わせをして感服させられ
その後はみな彼から学んだ。

おおよそ陳発科に挑んだ人は
最終的に彼と友達になっている。

ここからも陳発科の人柄や品格、
武徳が伺い知れる。

・・・

あの頃、兄は毎朝自転車で中州会館へ
学びに通っていた。

早朝5時に着いた頃には陳老師は
とっくに練習を終えていた。

毎回兄がまず一回通して
それから陳老師が口頭で説明し

一度見本を見せてから
間違っている架式を修正した。

最後のほうになってようやく
各動作の用法を教えた。

兄が動作を練っている時
陳老師は椅子に座って
水煙草を吸いながら見ていた。

打ち終わった後に

「そこはあってる」
「そこは違う」とか

勁が肘にあるのか
それとも腰にあるのか、とか

推手ではどう使うだとか

気が沈み切っていない
腰の回転がうまくできてない
とか

虚領頂勁が足りてるか
などなど

かなり辛抱強く
手取り足取り教えていた。

あの頃の練習では
陳発科の息子、陳照旭(※)と私の兄が
套路と推手において最もうまかった。

後になって洪均生もうまくなった。

一緒に学んだ者たちの中には
陳照旭がまだ若いのにあんなによくできるのは
陳老師が秘訣を彼には伝えているからだ
なんてことを言う人もいたが

そんなことはなかった。

兄が学びに行く時は
朝5時には着いていたが

陳発科は起きるのが早く
その頃には少なくとも二十回以上
套路を通し終えていた。

陳照旭はまだ打ち続けていた。

陳発科は息子に対しての要求は相当厳しく
かなり早い時間に彼を起こしていた。

当時、幼かった陳照圭(※)はまだ小さく
八仙卓の高さをちょっと超える
くらいの身長だった。』

_________

【注釈】

※李鶴年(李曾耆)…第一話参照。
陳発科の弟子。楊徳厚氏の姉の夫。つまり
楊益臣先師にとっても義理の兄弟にあたる。

※陳照丕(績甫)…序章(二)の注釈及び
第二話参照。
陳発科の甥っ子。陳式太極拳第十八代伝人。

※聴勁…相手の攻撃の意図の起こりや勁を
察知すること。

※武生泰斗…武生とは京劇の表演の役を示し
泰斗とはトップの存在を示すので、武術的な
立ち回りをする役者のNo.1を意味する。
楊小楼は西太后にも気に入られていたという
記述を見たことがある。

※許禹生…第一話、第二話参照。
劉慕三たちが陳発科に師事する前から
彼らと推手などを通して交流していた
国術館館長。
エピソードからは著名な武術家たちの
教えを北京で普及させるのにかなり
貢献していた様子が伺える。

※陳照旭(1909—1960)…楊徳厚氏の話では
長男と語られていたが、実際は陳発科の次男
のようなので、ただ息子と訳した。
陳氏十八世。二十歳の頃には相当な実力
だったと記されている。


〈左が陳照旭〉

※陳照圭(1928.1.24–1981.5.7)…陳氏十八世。
4歳で父について北京に移住し7歳で練習を
始めた。まだこの頃は練習を始めていなかった
ことがわかる。

過去の投稿で触れた、現在(2008年以降)
心意六合拳などでお世話になっている
浙江省武義県の何建一老師は陳式太極拳の
伝承者でもあり

陳発科→陳照圭→丁金友→何建一老師
の系譜で継承されている。

僕は西安で学んだ架式を崩さないために
武館で指導されている姿を拝見するに
留めている。

今回の注釈はすでに登場したことのある人物が
ほとんどなので解説は不要かと思いつつ

お一人お一人が映画の主人公になり得る
ような方たちばかりなので
誰か分からずに読み流されてはもったいない
と思い、軽く情報を添えてみた。

興味が湧いたら、ご自身で中国語の
サイトで検索をかけてみることを
オススメする。
_________

・・・・・・

楊益臣先師が陳発科と
八仙卓を挟んで座っているシーンは

自分の知っている人が出演している
映画を見ているようでなんだか
ワクワクした。

早朝に自転車で練習に向かう先師の姿と
自分が西安で城壁沿いの公園に通っていた
時の姿を勝手に重ねてみたりする。

胸が熱くなってくる。

次回は楊先師が西安へ移住した頃の
様子に触れていこうと思う。

〜つづく〜

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『先師の物語』〜第五話〜楊益臣先師を敬服していた師兄弟

こんにちは。

先週は久しぶりの
鹿児島セミナー開催でした。

2018年秋頃からお伝えしてきたことを
丁寧に受け取ってくださってきた方々と
中心軸の感覚や仙骨周辺と腕との連動などを
復習しながら動作に落とし込んでいきました。

今回もたくさん感じ取ってもらえて
楽しく充実した時間でした。

セミナーでは一回の参加で体感できることも
たくさんありますが

一人で時間をかけて丁寧に腑に落とす

ということをされている方々は自然と
受け取れる情報量も多いのを感じます。

非言語の部分であるほど
身体感覚として認識できるか
どうかが顕著に現れます。

過去の動画でも触れましたが
学習の「学」と「習」はしっかりと
分けて考えるのがオススメです。

「学ぶ」は刹那的に一瞬で可能ですが
基本的に師が必要です。

しかし、それを落とし込み
再現性を高めるのに「習熟させる」ための
繰り返しが大切になってきます。

そこで、思い込みのままに間違ったことを
繰り返すと取り組んでいること自体が
癖の助長やエゴの増幅にしかならないので
細心の注意が必要です。

人によっては今やっている練習を
辞める(=勇気を持って手放す)ことが
進化の第一歩である場合もあります。

(心理的抵抗や摩擦が生じるので
この手のアドバイスは信頼関係が築けた
近しい人にしかしませんが…)

本当に得たい結果は何なのかを明確にして
丁寧に情報と向き合い、受け取り
大事に腑に落としていきましょう。

自分自身に言ってます^^

さて
12月上旬の鹿児島滞在も
心地よい時間でしたので

興味ない、要らん、と言われても
動画でまたシェアしますね。

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それではそろそろシリーズの続きに
入っていきます。

初めてこのブログに辿り着いた方や
久しぶりの方は以下の投稿をご覧
いただいてから読み進めてください。

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シリーズ第7段
『先師の物語』〜第五話〜

楊益臣先師を敬服していた師兄弟

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「洪均生氏※は当時いっしょに
学んでいなかったんですか?」

先師の弟、楊徳厚氏の話の途中、
取材していた李速騰が尋ねた。

_________

※洪均生(1907-1996)については
序章(二)を参照。
_________

楊徳厚は再び語りだした。

「洪均生氏は私の兄より二年遅れて
学び始めた。

電報局の陳式太極拳を学ぶ者が増えて
きたうえに、劉慕三も忙しくしていて
中州会館まで毎回足を運んで練習するのが
不便だったので、車を出して陳発科を
家に呼んで指導を受けるようになった。

洪均生はその頃から学び始めた。

後になって洪均生は

『私が最も敬服しているのは
あなたのお兄さんだ。

彼は我々一緒に学んできた者たちの中で
最もしっかり身につけていた。』
と私に語った。

洪氏は済南(山東省)で太極拳を教えて
有名になった後も、彼の弟子をわざわざ
私の兄に架式を修正してもらうために
西安に行かせたこともある。

兄は当時、長安韋曲電報局に勤務しており
あの頃は服務部門の秘密保持のため
見つけ出すことができかった。

兄が北京を離れる時、洪均生のところへ
推手を学びに行くように言われた。

洪均生は太極拳を始めたばかりの頃は
体があまりよくなかった。

3年くらい経った頃、宣武門外にあった
彼の家に行ったことがあったが
家に入ると部屋中に漢方薬の匂いが
充満していて、あちこち漢方を煎じる
土瓶だらけだった。

彼は太極拳を練習し続けて病を克服した。

彼も早い時期に学び始めた者の中では
よく学んでいた弟子の一人だ。」

・・・・・・


〈楊徳厚老師と洪均生老師〉

この投稿とは別に洪均生老師が
楊益臣先師に対して敬意を持っていた
ことがわかるエピソードが
中国語のサイトにいくつか見られた。

『彼は陳発科の最も優れた弟子で
洪均生でさえもが敬服していた』

というタイトルの投稿では

以下の写真に書き込まれたメモについての
エピソードが語られている。

「陳発科の初期の弟子の一人である
洪均生は一枚の古い写真を遺していた。

彼らとの集合写真である。

この写真に写っている人物は

一列目の左から
趙仲民・陳照旭・劉慕三・陳発科・陳豫侠

二列目の左から
張一凡・洪均生・楊益臣・劉亮

洪均生が陳発科及び師兄弟たちと撮った
集合写真はたった2枚しかなかった。

そのうちの一枚は30数人が写っていたが
文革の時期に失われてしまい
遺っていたのがこの一枚だ。

この写真も洪均生の鼻が半分に裂けて
見えるような劣化ぶりだったが
彼の弟子で写真館で働いていた李学剛が
修復し直した。

この古い写真の楊益臣のそばに
洪均生は四文字を記した。

“学的最好(シュエダツイハオ)”
_________

※直訳すると「最もよく学んだ」となるが
私(川津)の個人的な語感としては
「修得の度合いが最も高く優れている」
というニュアンスが近い。
_________

洪均生がこのように書くからには
楊益臣の功夫(ゴンフー)は陳発科に
認められていて彼自身も敬意を持って
いたのだろう。」

・・・

そんなことが書かれた投稿だった。

陳発科から直接学んでいた期間も長く
初期の弟子として後に有名になった
洪均生については

記事の投稿者であり、この時
楊徳厚氏に取材していた李速騰氏も
気になったのだろう。

楊徳厚氏の話の続きに

「陳発科が北平に来た後、天橋によく行って
別の人たちが各種の武術や摔跤※、中幡※を
練習しているのを見に出かけていたが
このことが後に彼が架式を改変する際に
大いに役立った。」

という内容があった。
_________
※摔跤(シュワイジャオ)…組技系の伝統競技
※中幡…唐、宋時代に起源を持つ雑技の一種
_________

序章(二)の注釈でも触れたが

洪均生は1930年からの15年間
陳発科より学び

1944年に山東省済南に引っ越した後
1956年に再び北京に戻って陳発科に
師事している。

つまり、洪均生は陳発科が改変する
前の架式と新しく創られた架式を
両方知る数少ない弟子の一人と言える
かもしれない。

西安でお世話になった蘭老師から

「洪派の陳式太極拳は、本来我々と
同じ系統だったが彼らは後に動作を
変えてしまった…」

と聞かされていた言葉の意味が
なんとなく理解できてきた。

弟子たちが師より学んだ動作を
それぞれでたらめに変えるわけもなく…

洪均生氏の場合は、時を経てから
再び北京に戻ったことで

後に普及する新しく改変された架式の
影響も受けていたということなのだろう
と解釈している。

陳発科の初期の弟子たちの中でも
楊益臣先師が認められていたことが
感じられるとやはり純粋に嬉しい。

前回、今回と
上司であり師でもあった劉慕三氏や
後輩にあたる洪均生氏について触れてきたが

次回は、そろそろ楊益臣先師ご自身に
スポットライトを当ててみたいと思う。

〜つづく〜

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※すでに終了しているイベントが掲載されて
いる場合は、次回の更新をお待ちください。

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『先師の物語』〜第四話〜系譜に名を遺していない偉人たち

こんにちは。

11月も終わり2021年も
あと1ヶ月。

年初に望んだことは
叶ったでしょうか?

あと1ヶ月もある!

と思えたら年内にして
おきたかったことが
何かしらできそうですね。

僕自身、のびしろや
習慣等の改善の余地は
いくらでも挙げられますが

目の前に投影されている世界は
どんどん望んだものにシフト
してきている実感もあります。

叶えたいことも
いっぱい現実化しました。

「大切にしたいことを
素直に大切にする」

このシンプルなことが
少しできてくるだけでも

充足感、安心感が格段に
あがって心が日々満たされるので

このブログに出会ってくださったあなたも
ぜひご自身の本音と向き合って
心から大切にしたいことに日々
意識を注いでみてくださいね。

さて

前回のブログで写真だけシェアした
富士吉田や伊豆高原の映像を
少し前になりますがYouTubeに
アップしましたのでシェアしますね。

https://youtu.be/bAZcsBByYMM

____________

この後にパートナーの書いたブログが
違った視点から大切なことを伝えてくれて
いるのでぜひご覧ください。

https://ameblo.jp/553310ar/entry-12711311284.html#blogContent

____________

11月東京ワークショップ及び
関東圏での個別指導も先週無事に
終えて大阪に戻ってきました。

世間的にも移動がしやすくなったためか
お蔭様で1部、2部は当日の1週間ほど前に
定員数に達しました。

直前にチェックして、参加したかったのに
今回は見送ることになった方が
おられたらスミマセン。

今後も気長にご案内をご確認いただけたら
嬉しいです。

メッセージのやりとりだけだった方々と
初めてお会いできたり
東京在住の頃から一緒に練習してきた方と
またお会いできたり

今回も楽しい時間を過ごすことが
できました。

都内や近郊に限らず静岡県や山梨県など
遠方から泊まりでお越しくださった方々
ありがとうございました。

今回得られたこと、もう少し詰めて
学びたかったことなどなど
ぜひ率直な思いをメールでもお聞かせ
いただけたら嬉しいです。

11月東京ワークショップの振り返り
「腕は仙腸関節・鼠蹊部から伸びている」
https://youtu.be/lfEsYIA8BV8

_________

それでは今回もシリーズの続きに
入っていきたいと思います。

前話までの内容を忘れてしまった方は
以下を読み直してから読み進めてください。

2021年、ある投稿の発見
『先師の物語』〈序章1〉
https://shienonekonessblog.wordpress.com/2021/09/28/chen-style-taichi-story1/

2006年、西安での出会い
『先師の物語』〈序章2〉
https://shienonekonessblog.wordpress.com/2021/10/11/chen-style-taichi-story2/

2008年、先師の弟のお話
『先師の物語』〈第一話〉
https://shienonekonessblog.wordpress.com/2021/10/27/chen-style-taichi-story3/

1928年北京
陳式太極拳を初めて目にした者たちの戸惑い
『先師の物語』〈第二話〉
https://shienonekonessblog.wordpress.com/2021/11/07/chen-style-taichi-story4/

陳発科を本気にさせた?
『先師の物語』〈第三話〉
https://shienonekonessblog.wordpress.com/2021/11/17/chen-style-taichi-story5/

__________________
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
シリーズ第6段
『先師の物語』〜第四話〜

系譜に名を遺していない偉人たち
__________________
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

劉慕三という人物に対して
とても敬意と感謝の気持ちが
湧いている。

呉鑑泉の高弟として
20年以上、師について学んできて
自分自身にも生徒がたくさん
いるともなれば

自負するところもそれなりにあって
然るべきだが

太極拳の発祥の地である陳家溝から
来た伝人に純粋に会いたいと願い

その本質を見抜いて
自身とともに生徒たちにも同時に
学ばせるあたり

武術に対する姿勢や混じり気のない
求道心のようなものがひしひしと
伝わってくる。

ここで何を言いたいのかというと

新しく物事を学び吸収する時には
一旦これまで積み上げてきたものや
それに付随して生じる自尊心なども
手放す必要があるが

一つの分野に関わる時間が
長くなればなるほど

新しい情報と出会い、心が響いた際でも

「ちょっと参考にさせてもらう」

という、逃げ道を残した状態で
スキルの摘み食いにとどめてしまう
人が多い・・・

ということである。

本質的なことに気付き始めたのに
捨てるべきものを捨てられず
変化を受け入れずに元に戻ってしまう方を
程度の差こそあれ何人も見てきた。

これは何者かへの批判ではなく
自戒の念をこめた表現なので
あしからず・・・。

これまでのお話にも登場した
北平体育研究社(※)で副館長をしていた許禹生
と対等に交流していた劉慕三は

当時の北京において武術界の重鎮と
呼ばれても不思議ではない存在なのは
容易に想像がつく。

____________

※北平体育研究社は1912年に北京で設立され
呉鑑泉(呉式太極拳二世)、
楊澄甫(楊氏太極拳三世)、
孫禄堂(孫式太極拳創始者、形意拳、八卦掌)
劉恩綬(陰把槍)などの武術家が指導した。

初代館長は北京市長、副館長は許禹生が
選ばれた。
つまり、実質的に武術界の者としては
許禹生が中心にいたことが伺える。

許禹生も陳発科より学んでいる。
____________

しかも劉慕三は若い時期に
フランスに滞在していたとの記載もあり
当時において、かなりの知識人であった
ことも伺い知れる。

時代や文化的背景も
関係しているとはいえ

そんな劉慕三が
会って間もない陳発科に師事し
生徒ともどもその門下となって
学び続けたことに彼の人格者としての
姿が垣間見える。

もちろんそれだけ陳発科の功夫の高さが
際立っていたからであることは
言うまでもない。

・・・・・・

1937年の盧溝橋事件で
(中国では”七七事変”と表現する)
日本軍が北平(北京)を占領した際

北平電報局で働いていた人々は
電報局の移転とともに各地へ散っていった。

この際、すでに述べたように
楊益臣先師は西安へ移り住んだ。

そして、劉慕三が行った先は
太原(山西省)だったという。

その後、戦況は緊張を増し
しだいに連絡は途絶え
その後の劉慕三の消息は不明とのことだ。

・・・

____________

今回は
先師の弟、楊徳厚氏のお話の続きではなく

楊益臣先師のもともとの先生であり
先師が陳発科の弟子となるきっかけとなった
劉慕三について触れてみた。

今年になって
ご先祖様に手を合わせるのと
同じように

先生、
先生の先生、
そのまた先の先生・・・

と思いを馳せて手を合わせ
感謝する時間を設けるように
しているのだが

それと、同時に
劉慕三のような方を知ることで

その教えが継承されるのに関わった
兄弟弟子などを含むあらゆる先人
全ての方々に感謝の対象が
自然と広がるようになった。

系譜にも歴史にも名の遺っていない
こうした偉大な先人の方々のお蔭で
伝わってきたものがあり
今後も紡いでいくべきことがある。

合掌・・・

次回はまた先師の弟のお話の流れに
戻っていこうと思う。

〜つづく〜

________________________

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『先師の物語』〜第三話〜 推手、陳発科vs劉慕三の結果は!?

こんにちは。

先日、富士吉田市に用事があり
初めて山梨側から富士山を拝みました。


〈人生初の山梨側から見る富士山〉

思いがけず紅葉も楽しめました。

当日が41歳の誕生日だったので
素晴らしいギフトでした。

その後、パートナーが前から
行きたかったというお宿での
養生断食リトリートに参加してきました。

そこで講師をされている方のお一人が
僕のYouTubeやDVDをご視聴されていた
とのことで

「川津先生ですよね」

と声をかけて下さって嬉しかったです。


〈対馬の滝〉

伊豆高原での3泊4日だったのですが
景色も環境も心地よかったので
こちらもYouTubeでシェアしますね。


〈伊豆大島から昇る日の出〉

話は変わって

最近、このブログのシリーズが
影響してるかわかりませんが

台湾で陳式太極拳について研究している
方からメッセージをいただきました。

本人は練習者ではないようですが

当ストーリーに登場する楊益臣先師と
同じように劉慕三のもとで呉式を学び
後に陳発科から陳式太極拳を学んだ方で

その後、台湾へ渡った弟子について
情報を送ってくれました。

台湾ではYouTubeを
「油管」って表現するんですね。

油の発音はYou(ヨウ)
Tube(チューブ)は管なので

そのままっちゃそのままですが
音訳と意訳を混ぜられると
瞬時に推測しにくいです…。

大陸ではGoogleさんがかなり昔に
撤退したので使われてない単語かも
しれないですね。

それでは今回もシリーズの中身に
入っていこうと思います。

初めて当ブログにたどり着いた方は
もちろんのこと

人名を見て「誰だっけ?」って
なりそうな方は以下を読み直してから
今回の内容をご覧ください。

2021年、ある投稿の発見
〈序章1〉
https://shienonekonessblog.wordpress.com/2021/09/28/chen-style-taichi-story1/

2006年、西安での出会い
〈序章2〉
https://shienonekonessblog.wordpress.com/2021/10/11/chen-style-taichi-story2/

2008年、先師の弟のお話
〈第一話〉
https://shienonekonessblog.wordpress.com/2021/10/27/chen-style-taichi-story3/

1928年北京
陳式太極拳を初めて目にした者たちの戸惑い
〈第二話〉
https://shienonekonessblog.wordpress.com/2021/11/07/chen-style-taichi-story4/

__________________
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シリーズ第5段
『先師の物語』〜第三話〜
推手、陳発科vs劉慕三の結果は!?
__________________
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

ここでお話の続きに入る前に
太極拳に関わる歴史に触れたことの
ない方に起こりがちな疑問に
お答えしておこうと思う。

前話にも系譜で名前が登場している
楊式太極拳の創始者、楊露禅(福魁)の姓と

この物語で
私が先師と呼ばせていただいている
西安で陳式太極拳を伝えた
楊益臣の姓が同じなので

子孫だったり
何か関係性はあるの?

という疑問である。

全ての人は遡っていけばどこかで
共通の先祖に辿り着くという
理屈は抜きにして

祖籍が河北省永年県閻門寨人と
されている楊露禅との間には
血族関係はどう考えてもないだろう。

それは、楊益臣先師の弟、楊徳厚氏の
お話にもあるように彼の一族は
満州民族(女真族)であり

姓も揚古利(1572年-1637年)という
先祖の名前の一文字「揚」の音を
漢民族の姓「楊」に当てて
つけたものだからである。

日本の教科書で清の初代皇帝は
太祖ヌルハチと学んだが
(中国語では”努尓哈赤”と表記)

同じようにその娘婿である”揚古利”という
人名も、もし日本の教科書に載るなら
「揚古利(ようこり)」ではなく
「ヤングリ」とカタカナ表記される
可能性が高い。

(※後日、実際に「ヤングリ」と表記された
日本語の論文を見つけた。)

同じように漢民族の姓をつけた
満州人の中に前話でも登場した
全佑の子、呉鑑泉もいる。

「烏佳哈拉」という満州族の姓の
頭文字「烏」の音と「呉」の音がともに
wu(ウー)なのでそこから
漢民族の姓「呉」をとっている。

烏龍茶(ウーロン茶)の「烏」(ウー)
なので中国語に興味がない方でも
発音には馴染みがあると思う。

楊露禅から学んだ満州族の全佑も
系譜の中では呉式太極拳の初代として
全佑とのみ書かれていることが多いが
たまに呉全佑との表記も見られる。

全佑は1902年、つまり清代に
亡くなっているのでご在命当時は
漢民族の姓は使っていなかったのでは
ないかと推測している。

冒頭の余談が長くなったが
以上、

先祖の名前の一字から音をとって
揚古利→「楊」

満州族の姓の頭文字の音をとって
烏佳哈拉→「呉」

という満州族の人々が発音から
漢民族の姓をつけた事例を紹介
してみた。

_______

前話からの続き

・・・・・・

先師の弟、楊徳厚氏は
話を続けた。

『最初に陳発科より陳式太極拳を学び
始めた電報局の十数人のうち

覚えているのは
劉慕三、楊益臣、李鶴年、劉亮、趙仲民
羅邁敖などだ。

あの頃に学んだのは”大架子”(「大架式」)
といい現在の架式と少し異なっていた。

とても簡潔で、三換掌、退歩圧肘、中盤など
いくつかの動作がなかった。

兄の話によると

劉慕三氏は一路を学び終えた後
単独で陳発科に推手の教えを請いに
行ったという。

兄たちはみな
20年以上呉式太極拳を練っていて
北京の武術界でも名の知れた劉慕三なら
陳発科と推手をしても大差がないに違いない

そう思っていた。

しかし
一手交えてみるとみなの想像とは違い
劉慕三の歩法はふらふらと大いに乱れて
3歳の子どもが大人に弄ばれている
ようだった。

しかも関節の靭帯を挫傷することになり
長い間痛みがとれなかった。

陳発科は後になってこう語った。

「ちょっと軽率だった。
劉さんは勁力があるので
手元が狂ってしまった。」

この一件から誰も陳発科に
推手の教えを請おうとはしなくなった。

陳発科は笑いながら言った。

「緩めて円を描けば受け流せる。
みな私とやってみたらいい。
ちょっと気をつければ何もケガを
するようなことはない。」

・・・

最初のうちは陳発科は
新華門のお向かいの栓馬樁胡同にある
劉慕三の家に毎週1〜2回来て教えた。

通常、兄は毎朝中州会館に行って
陳発科老師に学んだ。

電報局の人たち以外にもこれより以前に
陳発科から学んでいた者が
劉子成、劉子元など他にも数人いたが

みな商売で忙しくしていて
熱心な者はあまりいなかった。』

取材していた李速騰氏は
話を遮って楊徳厚に質問した。

『洪鈞生先生は当時一緒に学んで
いなかったんですか?』

・・・

_________

話の中で兄と表現されている
楊益臣先師の目立つ描写は
今回特になかったが

週に数回学んでいた電報局の
他の人たちと違い

先師が陳発科のもとに毎日指導を
受けに通っていたことがわかって
なんだか嬉しかった。

次回はお話の続きに入る前に
劉慕三に対し私が敬意を持った点
について少し語っておきたいと思う。

〜つづく〜

____________

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『先師の物語』〜第二話〜「あれは太極拳なのか?民間の拳術でしょ?」

こんばんは。

今回は最近始めた連載シリーズの
第4段です。

と、その前に

一つ前の投稿でYouTubeでも
シェアしますね〜

と言った種子島での映像を
お届けしておきます。

まだご覧になられていない方はどうぞ。

ロケット発射を初めて生で見ました↓↓↓
https://youtu.be/c1yGd7QTbQs

動画の冒頭は、過去(2016年頃?)にも
YouTubeでご紹介した西安留学中に
学んだ基本功のシリーズです。

今回は通背拳系の基本功ですが
腕の脱力や体幹との連動には
とても効果的なので

太極拳の練習者も含め
分野を問わずオススメです。

これだけは毎日やるように、と
西安で蘭老師から言われていた
数少ない基本功のうちの一つです。

さて
今回の内容も、登場人物など
これまでのお話を踏まえていないと
わかりにくい可能性があるので

第一話までをご覧いただいてから
読み進めてみてください。

2021年、ある投稿の発見
〈序章1〉
https://shienonekonessblog.wordpress.com/2021/09/28/chen-style-taichi-story1/

2006年、西安での出会い
〈序章2〉
https://shienonekonessblog.wordpress.com/2021/10/11/chen-style-taichi-story2/

2008年、先師の弟のお話
〈第一話〉
https://shienonekonessblog.wordpress.com/2021/10/27/chen-style-taichi-story3/

__________________
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
シリーズ第4段
『先師の物語』〜第二話〜

「あれは太極拳なのか?
民間の拳術でしょ?」
__________________
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

陳発科が北平(当時の北京)に訪れる前
彼の甥っ子にあたる陳照丕(績甫)が

有名な漢方薬局、同仁堂の
楽佑申・楽篤同という兄弟に
招聘されて北京へ指導に来ていた。

後に南京へ赴くことになった陳照丕の
推薦によって陳発科が北京へ来ることに
なったようだ。

陳照丕から套路を学び終えていない者たちに
彼に代わって陳発科が指導した。

そこで学んでいたのは
主に商売をしている社長たちばかりで
みな忙しく、熱心に練習する者が
多くはなかったという。

紫禁城を中心に
清国の首都として栄えた北京も

1911年の辛亥革命以降は
南京遷都により国の中枢ではなくなり
多くの者が南へ渡っていった。

その中には要請を受けて南下した
著名な武術家も少なからずいた。

少し前に登場した許禹生から要請され
北平体育研究社で1912年頃より指導していた
楊式の第三代伝人で楊式太極拳中興の祖とも
呼ばれている楊澄甫(1883年〜1937年)も

要請を受けて1928年頃に南京へ移った
一人だった。

その後、南京中央国術館の武当門門長に
就任している。

先述の劉慕三が呉式太極拳を20年学んだ
という呉鑑泉もまた要人たちに呼ばれて
1928年に北京から上海へ移り
後に上海鑑泉太極拳社を設立した。

____________

ちなみに
私(川津)が呉式太極拳を初めて
学んだのが2005年冬の浙江省で

2016年に亡くなった故 袁順川老師
よりご教授いただいた。

袁老師は呉鑑泉の娘婿、馬岳梁から
直接学んだ方で、よく浙江弁なまりで
馬岳梁はすごかったという話をされていた。


〈呉鑑泉宗師〉


〈馬岳梁は呉鑑泉の娘、呉英華の婿〉


〈袁順川老師〉


〈2005年頃、杭州市西湖のほとりにて〉

亡くなられてから知ったが
馬岳梁以外にも張潤栄、呉耀宗といった
呉鑑泉の弟子たちからも学ばれており

拝師(=入門弟子になること)されたのは
陳培慶(1915-2011)という方だった。

袁老師が亡くなられてからは
これまで心意六合拳や八極拳で
お世話になってきた何建一老師が
呉式太極拳の第五代伝人でもあるので
_____
全佑(楊露禅から直接学んだ)→呉鑑泉
→馬岳梁・呉英華→高峰→何建一老師
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
研修団で浙江省に赴いた際は
団の行程が終わってから
個人で武義県にある武館に伺って

呉式太極拳の動作をご指導、修正して
いただいている。

と言ってもここ2020年の年明けの
滞在を最後にしばらく伺えていないが…

何老師は楊式太極拳の伝承者でもあり
_____
楊露禅(楊式太極拳創始者)―楊健候―
楊澄甫―傅鐘文―鄒淑嫻―何建一老師
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
2013年頃、動作の全てではないが
楊式太極拳の体の使い方を徹底的に
叩き込んでもらった時があった。

期間も短く体系だてて全套路を学び
きっていないので

私は現在も楊式太極拳の指導は
していないが

後々あらゆる方面の太極拳練習者に
アドバイスをさせていただく機会を
持つようになってから
この時に受けた指導が大いに活きている。

太極拳はいつもマンツーマン
という環境でご指導いただいてきた。

そのメリットは大きい。

現在の私の個別指導というシステムも
その影響を無意識に受けてのこと
かもしれない。

非物質文化遺産にも認定されている
何建一老師についても書きたいことは
山ほどあるが

今回の物語から離れてしまうので
また別の機会に。

楊式、呉式の大家の名称が登場したので
人名を記憶に残してもらうために
関連のあることに触れてみた。

「ちなみに」の一言のつもりが
ちょいと脱線しすぎたか・・・

____________

そのような人々の南下の流れの中
陳照丕も南京での指導の要請を受け
北京を発つことになった一人だった。

それにより北京を訪れることとなった
彼の叔父であり師でもある陳発科は
騾馬市大街の中州会館というところに
泊まっていた。

楊益臣先師を含む
劉慕三から楊式太極拳や呉式太極拳を
学んできた電報局の者たちは

はたして陳家溝から来た者の動きを見て
何を感じたのか。

・・・

ここからが先師の弟、楊徳厚氏の
お話の続きである。

『陳発科は劉慕三の家に着くと
挨拶をした後、すぐに中庭で
陳式太極拳を演武した。

一路と二路を立て続けに打ち終わると
劉慕三はすぐに車を手配して陳発科を
中州会館までお送りした。

その時、劉氏の家には十数人がいたが
彼が去ってから皆、口々に言った。

あれが太極拳だというのか?

太極拳は伸びやかでゆったりしているし
柔を以って剛に克つことで
知られているものだ。

套路はどうしたって20分はかかるのに
あの二路なんて打ち終わるのに
10分もかかってない。

間違ってるでしょ。

あの人は見た目もよくないし
言葉数も少ない。

套路中に震脚や跳躍もして
声まで発していた。

あれは合ってるのか?

あれは太極拳ではない。
民間の拳術だ。

云々・・・

この時、劉慕三が言った。

「君らは気付いてなかったかもしれないが

速い動作であっても円を描いていたし
発勁してもなお緩んでいた。

発力の際に声も発していたが
脚下には根がはっていた。

套路を打ち終わっても
息ひとつ切らさず顔色も
全く変わっていなかった。

あの人には功夫(※)がある。

おそらくあれは本物の陳家の武術だろう。

お招きしたからには学ぶべきだし
套路を学び終えたら、推手の教えを請おう。

もし私より強ければ
引き続き彼から学べばよい。

まずは学んでみてからだ。」

______
※功夫(ゴンフー)…長い年月をかけて
積み重ねられた技量や能力を示す
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

このようにして学ぶことが決まった。

そこで陳発科のところへ交渉に行かせて
1人あたり毎月、2塊大洋(※)で
指導を受けることになった。

______
※大洋…当時の銀貨の名称。
およそこの時期の2塊大洋は
現在の800人民元(約14,000円)に相当。
(2021年11月某日の相場で換算)
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

中には高いと言って
学びたがらない者もいた。

劉慕三は言った。

「この拳法は学ぶ価値がある。

それは君たちが今後長く学び続けてから
わかることだ。」

あれはだいたい1928年下半期も終わりに
さしかかるころだったか
このようにして電報局の10人前後が
最初に学び始めた。』

先師の弟、楊徳厚氏の話は続いていく。


左から劉慕三、楊益臣、陳発科

・・・・・・

劉慕三がここで自分の生徒たちと
同じように「あれは違う」とか
「学ぶに値しない」とか言っていたら

近代における陳式太極拳の普及は
もっと遅れていたか違った形になって
いたかもしれない。

楊益臣先師が陳式太極拳を学ぶことも
西安で伝えることもなかっただろう。

そして約80年後、私の西安での
留学生活も全く違うものになって
いたかもしれない。

劉慕三の本質を見抜く目に
感謝しかない。

〜つづく〜

____________

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『先師の物語』〜第一話〜太極拳発祥の地「陳家溝」から来た者

こんばんは。

少し前まで種子島にいました。

心地よい時間を満喫したので
またYouTubeでシェアしますね。

移動のプロセスで
鹿児島市内に滞在する
チャンスができたので

2021年以降も受講を継続して
くださってきた方々に
メールでお知らせしたところ

数日前という直前のお知らせにも
関わらず鹿児島県内外から
集まってくださいました。

繊細に体の使い方と向き合っている
方々といっしょに体を動かすのは
楽しいです。

さて、今回は第1話と題していますが
連載シリーズ第3弾です。

序章1と2から順にご覧ください。

2021年、ある投稿の発見
〈序章1〉
https://shienonekonessblog.wordpress.com/2021/09/28/chen-style-taichi-story1/

2006年、西安での出会い
〈序章2〉
https://shienonekonessblog.wordpress.com/2021/10/11/chen-style-taichi-story2/

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シリーズ第3段
『先師の物語』〜第一話〜
太極拳発祥の地「陳家溝」から来た者

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序章でも触れてきた「例の投稿」に
関連記事はないかと後になって
少し検索をしたことがあった。

同じ内容が様々なサイトで転載されていて
名前の記載もなかったので
はじめはその筆者がどのような方なのか
わかっていなかったが

序章を書き終えた後になって
その投稿者が李速騰という方だと分かり
その方の陳式太極拳の演武も動画で
拝見することができた。

私の確認できた限りでは最初にその投稿が
ネット上に掲載されたのは2010年8月で
彼はその2年前頃から取材を始めたようだ。

私がまだ西安に滞在していた時分である
2008年5月に彼は北京に赴き
田秋茂氏(序章2を参照)の紹介を通して
楊益臣先師の弟である楊徳厚氏と
コンタクトをとることに成功した。

楊徳厚氏は北京陳氏太極拳研究会
栄誉理事をされていて当時すでに
90歳のご高齢であった。

はじめは兄である楊益臣先師から学び
後になって兄とともに陳発科より
学んだ方である。

文化大革命の後期からは
北京月壇公園陳氏太極拳補導站にて
長年にわたって指導に携わった。

最近見つけた一年前の動画投稿に

『陳発科唯一在世弟子、
百歳老人楊徳厚老師太極拳演示』
(※実際は簡体字)

とタイトルに書かれたものがあった。

その動画撮影の時点で100歳を超えて
ご健在でいらっしゃることがわかる。

その取材当時も
矍鑠(かくしゃく)としておられたので
その兄である楊益臣先師について
多くのことを伺うことができたようだ。
____________
※矍鑠…年をとっても、丈夫で元気のいい様子。
____________

以下、その投稿の筆者である李さんとの
談話の中で楊徳厚氏が伝えた内容を
紹介していく。

・・・・・・

『私の兄、楊益臣(名は徳福)は
1904年に生まれ、1959年に亡くなった。
____________
※名が「徳福」ということは
「益臣」は字(あざな)ということになる。
____________

我々の家系は満州族で正黄旗(※)に隷属し
先祖の楊古利は清の太祖ヌルハチの娘婿で
軍功が突出していて超品公(公爵の爵位)、
武勛王に封ぜられた。
(『清史稿』巻226列伝13に見られる)

____________
※正黄旗・・・清代の八旗(軍事組織)の
一つであり、黄色い旗から名付けられた。
鑲黄旗と正白旗と並び称して「上三旗」
とされ、皇帝が自ら統帥した。
____________

そのため
我が家系は代々みな武術を学ぶ伝統があり
幼い頃、家は比較的豊かで父は私たちに
幼少期から武術を習わせた。

家の中には武術練習用の中庭があり
石鎖(石のダンベル)、バーベル、壁際の
台の上には刀、槍、弓などが置いてあった。

当時、西単商場の後ろにある前馬館胡同の
大きな四合院に住んでおり、中には
正院と東西二つの跨院があって
長安街からとても近かった。

・・・

家族は五人兄弟で私が五番目だった。

五人とも幼い頃から武術が好きで
内三人の兄は北京電報局で働いていた。

電報局の主任は
劉慕三という無錫(江蘇省)の人で
呉式太極拳宗師呉鑑泉の高弟(※)であり
すでに20数年呉式を学んでいた。
____________
※高弟・・・古くからの弟子
____________

劉氏は当時50歳くらいで
呉式太極拳と楊式太極拳ともに
よくできることで北京では有名だった。

国術に対して非常に愛着を持っていて
毎日電報局の10数人を率いて練習していた。

私の二番目の兄、楊益臣と
李鶴年(姉の夫)もその中にいた。

兄も李鶴年もはじめは劉慕三より
楊式及び呉式太極拳や推手を学んでいた。

兄はその10数人の中でも一番うまかった。

劉慕三はよく兄を連れて西斜街国術館へ
館長の許禹生と推手をしに行っていた。

許氏は意拳、呉式、楊式太極拳全て
素晴らしく、劉慕三と頻繁に切磋していた。

劉氏は太極拳が河南の陳家溝から伝わった
ことを知ってずっと行ってみたいと
思っていたが休みがなく行けずじまいでいた。

1928年、河南省陳家溝から北京に来て
教えている人がいると聞いて劉慕三は
楊益臣に尋ねに行かせ、陳発科という人
であることを知った。

劉慕三は喜んで私の兄に言った。

「太極拳の全ては陳家溝から伝わったが
以前は秘して外には伝わっていなかった。

陳発科氏を招いて陳家の武術が
どのようなものか我々に見せてもらう
ことはできないだろうか」

この時は李鶴年氏が身を挺して

「私が行きます」

と言って劉慕三の車に乗って
陳発科のところへ依頼に行った。』

・・・・・・

楊益臣先師の弟、楊徳厚氏は
この後、北京での陳式太極拳の
伝承の様子について語っていく。

〜つづく〜

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『先師の物語』〜序章(二)〜準備の整った者の前に師は現れる

こんにちは。

本日の内容は以下のブログのつづき
となります。

〜序章(一)〜私が西安で学んだ陳氏太極拳

『先師の物語』〜序章(一)〜私が西安で学んだ陳氏太極拳

(※のマークのついている箇所は
専門用語や個人名についての解説が
ページ下部にあります。)

________________________

『先師の物語』〜序章(二)〜
準備の整った者の前に師は現れる
________________________

陳式太極拳の現代における普及は
一般的に陳発科が1928年に北京へ
行ったところから語られることが多いが

例の投稿の冒頭で

「洪均生(※)氏の回想録や田秋茂(※)氏のブログ、
北京陳式太極拳研究会の文章の中で

劉子成、劉子元、許禹生、李剣華、
劉慕三、楊益臣、李鶴年、劉亮、趙仲民

といった早期の弟子の名前に触れられて
いるだけで、その時代の具体的な状況は
未だに詳しく語られていない。」

と書かれていたように

中国の方々にとっても
著書やネットなどのメディアから
当時の北京での出来事について伺い知ることは
これまで容易ではなかったようだ。

西安留学(05年〜09年)当時の私が
片手間で調べることなどできなかったのも
無理はない。

その投稿の筆者が後々に詳しく
1928年~1940年頃の北京での
陳式太極拳の伝承過程を調べるに
至った経緯は以下のようなものだった。

「筆者はかつて西安市の興慶宮公園で
現在の陳照丕(※)伝の老架にも似た
少し異なる陳式太極拳を練習している人を
見たことがある。

その練習者によると、彼の老師である白悦本は
陳発科の早期の弟子、楊益臣から学んだ。

この套路は抗日戦争の折に楊益臣が
北京から西安に移住した後に伝えたもので
陳発科により1928年に教わった
“老拳架”(古い架式)だという。

この興味深い出来事により筆者は
楊益臣氏について詳しく知ることができれば
陳発科が北京で伝承した1928年~1940年頃の
具体的な情況が明らかになるのではないか
と思った。」

・・・・・・

投稿のこの部分にさしかかった時
読みながら笑みがこぼれた。

その筆者がかつて見たという
「西安の興慶宮公園で練習している人」
というのは

どう考えても私が留学中に学んだ師、
蘭広華老師であることは明らかだったからだ。

興慶宮といえば唐の都、長安にあった
玄宗皇帝が楊貴妃と戯れた場所として
知られているが

私が初めて蘭老師の指導を見学しに
赴いた場所こそその興慶宮公園の門前だった。

その投稿の筆者は、その老師との対話を
きっかけとして、後々その当時の北京を
詳しく知る先人の方々にお話を伺いにいく
ことになるのだが

そのストーリーの中身に入っていく前に
私自身が2006年に蘭老師と出会った時の
思い出を語っておきたいと思う。

・・・

2005年の夏
私は中国西安にある西北大学文博学院
(文学部にあたる)の博士課程に入学した。

思い出すとその経緯を含めて
語りたいことが山ほど出てくるし

感謝を伝えたい方々が脳裏に
溢れ出てくるのだが

物語に繋がることに(できるだけ)
しぼって述べようと思う。

・・・

西安留学までにある程度の中国語の会話や
武術関係での通訳などはしてきていたが

私は語学留学をすっとばして
博士課程に入学したので

専攻していた中国古代思想史に関する
専門的な講義を中国の大学院生たちに
まぎれて受講する以外にも

最初の一年は長期滞在している
本科の留学生に混ざって
語学の授業を受けたりもしていた。

その他にも
長安大学の社会人研修クラスで
臨時の日本語教師をしたり

同じマンションでルームシェアをしていた
韓国人留学生やその仲間たちと遠出をしたり

新しいこと楽しいことが目白押しで
指導に携わってきた武術に注ぐエネルギー
(気)が正直、散漫になっていた。

「長期留学あるある」だが、留学生には
半年に一回たくさんのお別れがある。

みんな留学を終えて各々の国へ
帰国していくのだ。

留学して一年後、家族のように時間を
共有していた仲間たちが一斉に日常から
いなくなった。

当時その大学の博士課程に日本人で
在籍していたのは自分1人だけだったが

同時期に西安に来た語学留学生たちと
毎日のように勉学のスキマ時間を
共有していたので、彼らの帰国は
想定していたよりも体にこたえた。

練習不足もたたったのか
精神的ダメージと体調不良とが重なり
短期間で激ヤセしたのを思い出す。

その頃から少しずつ自分の体と向き合う
ようになった。

当時25歳の後半。

今考えたら相当若いが
当時なりに年齢を感じるようになり
武術を始めたばかりの頃のような雑な練習を
していては体を壊すと思うようになった。

少しずつ大学のグラウンドでの
圧腿や架式(立ち方の練習)などを
長めにした練習を丁寧に取り組むようになり

日本でお世話になった武術の先輩方にも
少しは顔向けできるような生活を取り戻し
始めていた。

そんな頃、同じ大学の敷地内に住む
日本人親子と知り合い、小学生の息子に
中国武術を教えてほしいと依頼されて

毎晩のように螳螂拳を一緒に練習する
ようになった。

日本に住んでいた頃にバレエの世界で
結果を出した経験のある体のよく動く男の子
だったので、みるみる上達した。

彼は外国人専用のスクールではなく
現地の子に混じって中国の小学校に
通っていたので

日本人としていじめられないように
武術を身につけておきたいという思いも
あったようだ。

案の定、学校内でも一目おかれる存在となり

小学校の運動会ではみんなが集団演武する
時に、私が伝えた螳螂拳の套路を一人中央で
表演することになった

と堂々とした様子で語っていた。

初めて出会った頃はあどけない顔で
女子留学生のお膝にちゃっかり座っていても
何の違和感もなかったお子ちゃまが
武術とともに成長していくのが誇らしかった。

日々の練習を通して私の心身も
少しずつ整い始めていたそんなある日

彼の母親からあるお誘いを受けた。

もちろん夜のお誘いではない。

母親曰く、自分が日本語を教えている
女子生徒のお父さんが

「私が伝えている太極拳は
“真功夫”(ホンモノの武術)だ」

と豪語しているらしいから
実際どうなのか一緒に見に行って
もらいたい

というものだった。

そして、その母親と小学生の彼、
中学生の姉、私の4人で赴いたのが
例の興慶宮公園だった。

その失礼な品定めの結果が
どうだったのか

・・・

結論から言うと

その日、私はそこで指導していた老師に
教えを請うことを即決した。

今思い出すと決めた理由は後付け
かもしれない。

ただの直感でしかなく
それ以外の選択肢がもう考えられなかった
だけのような気もする。

それでも、なぜその老師についたのかと
聞かれたらこう説明していた。

半年学んだだけという大学生の安定感が
すごかった。

しかも後輩たちの見本となっている
やたらいい動きをしている学生ですら
練習歴たったの2年だった。

武術歴10年、それなりに日本で重心の
崩し合いを先輩方と練習してきて
安定感に自信のあった自分も

彼らとガチンコの推手で向き合ったら
秒殺されるのは明らかだった。

その老師から学べば、留学という
限られた期間でも自分が劇的に進化
できるのではないか

そう思った。

そして、その日本語の女子生徒の父である
蘭老師が毎朝練習しているという城壁沿いの
公園へ通う日々が始まった。

とにかく毎回体が内側から喜んでいた。

代謝の上がり方が尋常ではなく
季節に関わらず大量に汗をかくので
毎朝練習前と後では体重が1.5kg以上違った。

小学生の彼とも一緒に学んだが
柔軟性もセンスも優れた彼には
あっさりと先を越された。

発勁の見本としてその小学生の動きを
参考にしろ、と他の学生たちに見せる
ほどまでになっていた。

朝は老師のもとで陳式太極拳、
夜は陳式太極拳を練った後に螳螂拳
そんな日々を彼と続けていた。

中国の小学校はとにかく宿題が多い。

えんぴつの持ち過ぎで肩が凝り
吐き気がするというレベル。

しだいに彼は練習に来なくなった。

私は変わらずに朝の城壁沿いで
マンツーマン指導を受け続け

夜もたまに大学生たちが学ぶ
興慶宮公園へ通っていた。

蘭老師とその小学生と3人で
屋台の低い椅子に腰掛けて
クミンのかかった羊肉を食べながら
話をした時間がとても懐かしく思い出される。

蘭老師はムスリム(イスラム教徒)で
清真寺(中国にあるモスク)に礼拝に
行っていた。

帰国前に一度だけお部屋に入れて
もらったことがある。

ちまたのミニマリストよりも
物の少ない質素な生活をされていた。

お部屋の中には

・土間のような硬い地面
・練習場所に通うための自転車
・木の長椅子が一つ
・生徒にもらったという果物の入ったダンボール箱
・机にコーランと中国の古典が二冊
・硬そうなベッドの先の壁にかかった刀と剣

これが全てだった。

練習と指導と礼拝以外に
老師のしていることは知らない。

そんなシンプルさだ。

その蘭老師の先生にあたる白悦本師爺は
相当厳しかったという話をされていた。

そのさらに先生である楊益臣先師の
お話も伺っていたが

老師が紙にメモしてくれた文字は
「楊易辰」だったと記憶している。

益(yiの4声)「エキ」
易(yiの4声)「エキ」

臣(chenの2声)「シン」
辰(chenの2声)「シン」

要するに中国語でも日本語の音読みでも
発音が全く同じ文字なわけで

蘭老師自身も白師爺から口頭のみで
先師の名前を聞かされていたことが伺える。

この物語はその楊益臣先師について
日本語で語るために書き始めたが

少し自分の思い出に浸りすぎて
長くなった。

次こそは
1928年頃の北京に舞台を移そうと思う。

〜つづく〜

____________

〈注釈〉

※洪均生…1930年からの15年間、陳発科より
学び、1944年山東省済南に引っ越した後、
1956年再び北京に戻り、陳発科に師事した。

彼の伝えた太極拳は洪派陳式太極拳として
知られている。

西安で蘭老師から
「我々の架式と洪派の陳式太極拳は本来同じ
系統だが、彼らは動作を変えてしまった。」
と聞かされていた。

それがただの蘭老師の主観なのか
先師がそうおっしゃっていたのかは
わからないが

私は「みんな独自の風格でるよねー」
くらいにしか当時は思っていなかった。

ネット上には洪氏が山東省から北京に戻った時
陳発科の伝えている架式が変わっていた
といったエピソードも見られた。

彼の師兄にあたる楊益臣とのエピソードも
後のストーリーに出てくることとなる。

____________

※田秋茂…陳氏太極拳第十九代伝人。
北京市陳式太極拳研究会副秘書長。
1945年北京生まれ。

彼の叔父の田秀臣は陳発科の高弟
(=古い弟子)でありその叔父と
馮志強より学んだ。

その投稿の筆者と楊益臣先師の弟である
楊徳厚氏とを繋いでくれたのが
この田秋茂老師だった。

____________

※陳照丕…1893年4月8日-1972年12月30日
陳家太極拳第十八代伝人。陳発科の甥。

1928年より北平(現在の北京市)で
指導していたが南京に招聘された際に
その代理として陳発科が北京に赴いた。
____________

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『先師の物語』〜序章(一)〜私が西安で学んだ陳氏太極拳

これから記すことは

私が現在日本でお伝えしている
陳式太極拳を学んでいる方々が
一見独特に見られがちなその架式に
誇りを持てるようになるお話だと
感じたため

身近な生徒に切り取って語るだけにせず
まとめて文章化することにしたものです。
(複数回に分けて投稿する予定)

他意はなく、他の系譜に対して優位性を
示したいなどといった目的は毛頭ない点を
ご理解いただいたうえでお読みください。

動作の変遷など太極拳の歴史を
紐解くうえでも貢献になれば幸いです。

ストーリー仕立てにしたため
語尾が丁寧語でない点ご了承ください。

____________

〈序章〉

2021年9月某日

留学中に西安で出会い、2006年より
ほぼ毎日のように陳式太極拳を学んだ老師の
師匠にあたる白悦本師爺について調べたくなり
中国のサイト「百度(バイドゥー)」で
検索をかけた。
____________
※師爺(シーイェ)
=先生の先生(或いは父)に対する敬称
____________

2007年に亡くなられた方なので
動画が存在しており

一度だけ白師爺が套路を打っておられる姿の
おさめられた動画を、まだスマホのない時分
だったので当時はMP4か何かで見せて
いただいたのを覚えている。
____________
※套路(とうろ)
=中国武術のまとまった一連の動作。
日本語でいう型、形に近い概念。
____________

亡くなられる前に私はすでに西安に滞在して
いたが、後になって聞かされたため
お会いすることは叶わなかった。

老師がその動画を見せるかどうかだけでも
生徒を選んでいることは明らかだったので

そのデータ自体を我々生徒が手にすることは
当時考えられなかった。

私自身、一度しか見せていただいていない
からこそ残った強烈な印象があったのも
実感している。

ただ10数年が経過したこの日、直感的に
昨今のネットの普及に伴い誰かがネットに
アップしちゃったりしているのではないか
という淡い期待が脳をよぎり
中国語での検索に私を駆り立てた。

・・・・・・

その検索結果はさておき

そこで私は今まで知ることのできなかった
ある歴史について書かれた記事を
目のあたりにすることになる。

それが、私がこれから少しずつ綴って
いこうとしている陳発科の早期の弟子、
楊益臣先師の物語である。

____________
※陳発科とは当時はまだ陳家拳(陳家の武術)と
呼ばれていた後の陳氏太極拳の十七代伝人で
あり、陳家溝から出てきて北京で陳氏太極拳を
広めたことで知られている。

※楊益臣先師は、先ほど触れた白悦本師爺の師
にあたる方で私にとっては、先生の先生の先生。
____________

中国語で書かれたその投稿を
夜通しかけて読み終えた私は
ご先祖様の一人の生涯を描いた
ドキュメンタリー映画を見終えたような
感慨深さに浸っていた。

その記事は2021年9月半ばに転載された
ものだった。

長らく武術に関してネットで情報をとる
ことをしなくなっていた私が
このタイミングで検索の衝動にかられたのは
その投稿と出会うためだったと確信した。

そして、生徒に伝えなさいというメッセージ
でもあると・・・。

(後になって、元の投稿が2010年には
すでに書かれていたことがわかったが
同じ検索キーワードではきっと
たどり着けてはいなかった)

西安留学中にも老師から陳発科が北京で
陳式太極拳を普及させた時代の楊益臣先師の
エピソードを少しは聞かされていた。

「陳発科を家に住まわせて学んだから
公園で学んでいたその他大勢の弟子とは
学んだものが違う」

(※微妙に投稿で語られたエピソードとの
ズレがあるが、それもまた後に触れていく)

文化大革命の影響で
云々・・・

「だから
西安を離れてからどんな老師に指摘されても
動作は絶対に変えるな」

確かに私が教えてもらっている陳式太極拳の
架式は今まで日本で目にしてきた
どの系譜の動きとも違う自覚はあった。

ただ、自分たちが伝えているものが
正統な継承だと言いたがるのは
どの流派でも同じなので

私は他者には系譜について何も語らず
黙々とその套路を練るというスタンスに
決め込んでいた。

西安留学に行く前は
私は長拳螳螂門という一つの門派を
集中して学び指導員となっていたが

同会の合宿などの講習会で
陳正雷老師(陳発科のお孫さん、陳式太極拳
第十九代伝人)の弟子となった先輩から
年に数回、陳式太極拳を学ぶ機会があり
密かに7、8年は練っていたし

当時(97年〜05年)は武術に興味津々で
様々な動きを目にしてきていたから

明らかにこの西安で自分が学んでいる
陳式太極拳が多くの太極拳練習者にとって
珍しいカタチであることは認識していた。

心のどこかに

陳発科が伝えたものが実際にどんなもの
だったのか、時代背景や当時の北京での
エピソードについて詳細を調べたい
という気持ちはあったが

当時は積極的に調べる余裕もなく
手がかりもなかった。

そして時折
陳発科の白黒写真の立ち姿を見て

「???
うーん、今学んでいる陳式と
全然風格が違うんですけど・・・」

そんな小さな疑問を抱いたりもしていた。

(※それも後々理由がわかることとなる)

ただ西安で出会った老師の生徒たちは
みな短期間で体に重厚な安定感が出て
推手もバケモンみたいに強くなっている
のは紛れもない事実だったので

とにかく老師の言葉を信じて

この陳式太極拳のカタチは
しっかり遺そうと思ったし

練り込むたびに体が喜んでいたので
帰国してしばらくしたらやめちゃう
ということも考えにくかった。

現に40代になった今も私は細々と
練習を続け、こうして先師について
調べ、綴っている。

・・・・・・

ストーリーに入る前に私自身の2021年と
2006年前後数年の日本と西安を
行ったり来たりしていた。

次回から
私の存在していない1928年頃の北京に
時空を移そうと思う。

〜つづく〜

____________

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